ペルー訪問


 2011217日から27日までの11日間

広島ペルー協会20周年記念「ペルー訪問の旅」(ペルー日系先没移民追悼法要)へ参加した際のお話です。

 

 私にとってペルーは初上陸でとても興味深く新鮮でした。マチュピチュ、ナスカの地上絵、クスコ、修道院、博物館など多くの場所を訪れ人に出会い感動致しました。ペルーの神秘的な部分と変化に富んだ気候や風土、習慣を肌で感じペルーの魅力にひかれ、素晴らしい参加者と共に旅が出来たことは、楽しくまた大変勉強になった旅でした。その中でも印象深い、移民とペルー仏教「慈恩寺」について触れたいと思います。

 

 まず、移民の歴史を振り返ると、1899年にペルーへの南米初の集団移民が始まり、790名の日本人が移民船「佐倉丸」に横浜から1ヶ月以上かけペルーのカヤオ港に到着し、そこから南北7ヶ所の港に移民を降ろしていきます。

 

 しかし、移住後の日本人には言葉が通じないことや働き方や生活習慣の違いがありました。例えば、慈恩寺があるカニエテ郡カサ・ブランカ耕地に266人がサトウキビ畑で働くが劣悪な労働環境と風土病により3ヶ月後には労働に従事できる状態にあったのは30人といいます。渡秘後1年半で、ペルー全土で124名の日本人が亡くなっています。そのため、移住者たちは日本の外務省宛に窮状を訴える手紙を送り、その後、船を出すお金がなかった日本政府が苦肉の策として、農場主側に待遇の改善を要求し続け、移住者たちにも今の状況を耐えるよう説得するという手段に出ました。

 

 その結果、農場主側も待遇の改善に乗り出し、移住者たちもペルーの気候や風土に慣れはじめたこともあり、対立は終息へと向かいました。そんな中でも、ペルーへの移民事業は続き、1923年の移民契約が廃止されるまで、17,764名の日本人がペルーへ移住することとなります。

 

 この話を伺い、移民が降ろされた「セル・アスール港」に伺うと、現在は移住100周年記念碑が建てられ海水浴場として賑わっていました。しかし、112年前海外での新たな飛躍や、優雅な生活の夢を打ち砕いたハゲ山と砂漠が広がっていました。その苛酷な環境と悲惨な労働条件からも首都リマまで電話線だけを頼りに150キロメートル歩き救いの手を求めた苦しさや悔しさを思うと言葉もでませんでした。


 そんな生活を想像していると現地の人が私に声を掛けて下さいました。それは、初めて日本人がやってきた112年前ここにあったという木棒(浅橋の橋げたに使われていたそうで、長さ30センチメートル程で貝殻が沢山ついていた)を私に渡したいというのです。当時のものという証拠もないわけですが、少なくとも彼は、衣を着た日本人らしき僧侶を見つけ何か伝えたかったのでしょう。私には、それが移民の歴史を刻むものなのか、先祖から伝えられたものか何かわかりません。しかし、彼のあの目と情熱を思うと木棒を大切にすることを決め日本に持ち帰りました。

 

 法要前日には、日系人による「交流会」が盛大な歓迎で営まれ、日系人とのお話、歌や踊りの披露、皆で歌った「上を向いて歩こう」は思いで深く有意義な時間でした。

 

 この旅の目的である広島ペルー協会20周年記念「ペルー日系先没移民追悼法要」は、岩垣老師を御導師のもと、約60名参列され皆さん慣れない口調ながらも一生懸命に般若心経を唱えられ営まれました。その後、私は3,000近い位牌を目にしながら、100名以上のお骨が安置されている本尊下の地下納骨堂にお参り致しました。

私自身微力ながら参加させて頂き、胸が一杯になるほど皆が一つになれた法要でした。

 

 次に、慈恩寺は1903年に第2回移民船1,178名とともに乗った「曹洞宗慈恩寺」開山上野泰庵老師が1907年に開かれた南米最古の仏教寺院です。建物は、当時の在留日本人の浄財と上野老師の熱意で建立(2度の移転を経て現在の建物は1977年に建立)。皆貧しかったため本尊仏具などは10年以上かけて喜捨されています。

 

 上野老師は、渡秘1ヶ月程前に管長辞令があり布教計画をされます。南米開教と移民監督として渡り、葬儀・法事だけでなく坐禅会や日曜説法で布教し、移民風紀向上に貢献するなど、寺に隣接した南米最古といわれる日本人小学校でも初代教諭としても活躍されます。移民の模範的な立場となり偉大な功績を残されます。その努力と苦悩は想像を絶するものと思われます。

 

 1940年代頃から信仰からくる仏教ではなく儀礼となり始め、日系人が求める僧侶は布教師(僧侶の資格があり仏教の教えを学び広める人)から読経師(僧侶の資格がなくてもお経をあげれる人)へと変わっていきます。

 

 慈恩寺6代目清広亮光老師(正式には住職でない)は、宗門に住職派遣を依頼するが実現しませんでした。1992年に清広師の歿後、ペルー日系人協会から宗門に住職依頼をされるが宗門がはっきり返答しなかったため、宗派を気にしていなかった日系人は西本願寺(以下本派)へ依頼し、ブラジルから本派僧侶が訪れ読経されるようになります。しかし、曹洞宗の寺院だったため本派・曹洞宗・日系人協会の間に度々問題が起こり混乱の時代が続きます。しかし、読経師の慈恩寺信徒代表:徳田義円元ペルー新報編集長・現フリーライター太田宏人氏(2012年曹洞宗僧侶として出家)の働きにより、問題はほぼ解決に導かれていきました。

 

 太田氏は慈恩寺にやみくもに置かれた傷んだままの2,000以上の位牌の存在に心を痛め、1997年から3年をかけ一つ一つ位牌を修復整理し位牌帳を作成されました。2000年に日本へ帰国し慈恩寺位牌帳を自費出版されます。翌年、その貴重な位牌帳を曹洞宗に寄贈され、宗門で改訂第2版「曹洞宗慈恩寺(ペルー共和国)位牌リスト」として刊行され、ほとんどがペルーの関係者に寄贈されました。

 

 現在の慈恩寺は、本派は関わっていません。ペルー在住のアルゼンチンの日系人の尼僧さん(曹洞宗)やブラジルから曹洞宗僧侶が年数回法要に訪れているそうです。慈恩寺周辺の日系人の多くはカニエテから首都リマに移り住み、盆や彼岸にお墓や慈恩寺に参拝するといいます。

 

 慈恩寺の管理はカニエテの日系人協会が行っており、実際には管理人(カルメンさん、ヘススさん)が住み込みで勤務されています。この移民と慈恩寺の歴史は、太田氏が独自の調査を行い慈恩寺が曹洞宗であることを証明され、SOTO禅インターナショナル(SZI)・曹洞宗報などに解説しておられます。

 

 これまで築いてこられた慈恩寺歴代御住職、読経師を始め、日系人檀信徒、慈恩寺勤務の方、太田氏など多くの人の苦悩と揺るぎない熱意や努力のお陰でペルー仏教「慈恩寺」が護られたのだと実感しました。敬意を表し深く感謝申し上げたいと思います。

 

 今回、太田氏の発案で急遽実現した徳田氏への訪問は1時間程の会談でした。お宅には仏壇がありとても綺麗にされていました。とても92歳とは思えない若さの素敵な先生で仏心を感じとることができました。実際に、読経師にお会いできたことは貴重な体験でした。

 

 ペルー日系人にとっての仏教は次のようにいわれています。「我々にとっての仏教は、宗教でなく習慣である」ペルーでは、仏式葬儀で十字架を前に位牌を置き焼香するといいます。良くいえば日本人特有の何でも順応できる曖昧さかもしれません。ただ、曹洞宗僧侶として指導者の必要性を強く感じました。

 

 現在、仏教死者儀礼の需要はペルー国(人口2800万人)全体からすると少ないといわざるを得ませんが、日系人は10万人超といわれ、今回を始め過去の記念法要等が証明しているように、仏教儀礼を護り仏壇や位牌を祀り盆や彼岸には墓参りをする人は多いです。

 

 信仰心は、上野老師時代から比較すると低くなっているでしょう。しかし、一概に信仰心がなくなった訳ではないと思います。例えば、今回リマでタクシーに乗車した際に運転手の話ですが、「ペルーの交通事情はマナーが悪く毎日タクシーに乗り頭がおかしくなっていたが、最近、坐禅に出会い通うようになり改善されてきた。」というのです。近年、ペルーにも坐禅グループが存在しているのです。

 

 このように、読経し供養してもらいたいという人々の気持ちはまだまだ残っていると感じました。また、仏教は日系人だけでなく、少しずつながらペルー人にとっても精神的支柱になり始めているようです。間違いなく、ペルーにはまだ仏教が生きています。年数回の法要を営み、習慣や儀式だけでなく、志ある僧侶が慈恩寺に在住すれば、読経と布教をあわせ人々の苦しみを取り除き、仏教が道標になり安らぎを与えることができると思います。

 

 私は今回、移民の歴史とペルー仏教「慈恩寺」について学べたことが財産となり法要に携われたことは光栄でした。これを機会に啓蒙啓発に努め再度必ず慈恩寺に拝登し、このご恩に報いたいと思います。

 

 最後に、この旅を企画された小林様、小田様、ご案内頂いた太田様、御縁あり共に腹痛に耐えた参加者一同様、ペルー日系人の方など多くの方と出会い学び頂いた喜びに感謝し、深く御礼申し上げます。